村田修一内野手
打率.328 試合数119 打数442 得点78 安打145 本塁打41 打点99 盗塁0

日本を代表する4番。ハマの4番
横浜って言ったら村田!ベイスターズの顔てき存在。
昔のマシンガン打線復活をのぞんでいる人からみたらいらない存在かもしれない・・・。
でも私みたいなファンからみたら村田がいないなんて考えられないくらい!力強いです。
■解説■
2003年
ドラフト自由枠で横浜に入団。本職のサードに加え、セカンドにも挑戦する。1年目から三塁手のレギュラーを古木克明と争い、6月までは古木が三塁、村田が二塁に落ち着き、古木が外野に回った後半は三塁のレギュラーに定着した。9月に新人としては日本記録となる月間10本塁打を放つなど、104試合で25本を打ち活躍した。しかし9月28日のヤクルト戦で石堂克利から受けた死球で右手尺骨を骨折し、そのままシーズンを終える。
2004年
守備難から、本来のポジションであるサードにコンバート。5番サードで開幕スタメンの座をつかむが、守備での凡ミスや三振の多い打撃など課題が多くあったため、シーズン途中に種田仁や内川聖一にレギュラーを奪われ、後半は7番での出場が多かった。三振を減らし出塁率を上げたが、本塁打は大きく減少してしまった。12月8日に入籍。
2005年
開幕からシーズン最後まで主に7番で起用された。打撃不振のため交流戦では7試合で9番サードで先発したこともあった。その5月28日の交流戦第1戦の対千葉ロッテ戦で逆転2点タイムリーヒットを放った(後述)。6月22日の対巨人8回戦で内海哲也から初めての満塁ホームランを放つ。
2006年
WBCエキシビション試合で12球団選抜側で出場、日本代表の松坂大輔から内角直球を左翼席に運ぶ決勝点となる3ランHRを放った。
開幕当初は7番に座り、多村仁の離脱後は5番を打っていたが、4番の佐伯貴弘の不振により、6月1日の対ソフトバンク戦でプロ入り初の4番に座り、そのままシーズン最後まで4番の座を譲らなかった。故障者の多いチームの中で打率.266、34本塁打、114打点と獅子奮迅の活躍を見せた。しかし両リーグ最多の153三振を喫してしまうなど粗さも目立った。
日米野球の日本選抜に選ばれ、第4戦(京セラドーム大阪)では全日本の4番に座りタイムリー、第5戦(ヤフードーム)ではジョン・ラッキーからホームランを放つなどまずまずの活躍をみせた。
2007年
全試合に4番サードでスタメン出場。2年連続30本塁打100打点を達成。打率・出塁率を前年より上昇、三振数を減少させた。重いバットの使用(後述)の効果もあり、後半戦だけで23本もの本塁打を量産し、8月終了時点で8本差をつけられていたタイロン・ウッズを抜き去り、36本塁打で初タイトルとなる本塁打王を獲得した。
12月に開催された北京オリンピックアジア予選を兼ねたアジア野球選手権大会に日本代表として出場した。この時は背番号「25」を新井貴浩に譲り、自らは生年でもある「55」をつけてプレーした。
2008年
昨年に引き続き開幕から4番サードで出場。春先は不調だったが5月から調子を上げ、7月中には30本塁打に到達した。3年連続の30本塁打達成は球団史上初である。前半戦終了時点で本塁打数、長打率でリーグトップに立っている。この活躍により北京オリンピック野球日本代表に選出された。9月14日、オリンピック招集などの影響でいくつかの試合を欠場しつつも、自身初のシーズン40本塁打に到達する。
村田修一をウィキペディアで詳しく!

日本を代表する4番。ハマの4番
横浜って言ったら村田!ベイスターズの顔てき存在。
昔のマシンガン打線復活をのぞんでいる人からみたらいらない存在かもしれない・・・。
でも私みたいなファンからみたら村田がいないなんて考えられないくらい!力強いです。
■解説■
2003年
ドラフト自由枠で横浜に入団。本職のサードに加え、セカンドにも挑戦する。1年目から三塁手のレギュラーを古木克明と争い、6月までは古木が三塁、村田が二塁に落ち着き、古木が外野に回った後半は三塁のレギュラーに定着した。9月に新人としては日本記録となる月間10本塁打を放つなど、104試合で25本を打ち活躍した。しかし9月28日のヤクルト戦で石堂克利から受けた死球で右手尺骨を骨折し、そのままシーズンを終える。
2004年
守備難から、本来のポジションであるサードにコンバート。5番サードで開幕スタメンの座をつかむが、守備での凡ミスや三振の多い打撃など課題が多くあったため、シーズン途中に種田仁や内川聖一にレギュラーを奪われ、後半は7番での出場が多かった。三振を減らし出塁率を上げたが、本塁打は大きく減少してしまった。12月8日に入籍。
2005年
開幕からシーズン最後まで主に7番で起用された。打撃不振のため交流戦では7試合で9番サードで先発したこともあった。その5月28日の交流戦第1戦の対千葉ロッテ戦で逆転2点タイムリーヒットを放った(後述)。6月22日の対巨人8回戦で内海哲也から初めての満塁ホームランを放つ。
2006年
WBCエキシビション試合で12球団選抜側で出場、日本代表の松坂大輔から内角直球を左翼席に運ぶ決勝点となる3ランHRを放った。
開幕当初は7番に座り、多村仁の離脱後は5番を打っていたが、4番の佐伯貴弘の不振により、6月1日の対ソフトバンク戦でプロ入り初の4番に座り、そのままシーズン最後まで4番の座を譲らなかった。故障者の多いチームの中で打率.266、34本塁打、114打点と獅子奮迅の活躍を見せた。しかし両リーグ最多の153三振を喫してしまうなど粗さも目立った。
日米野球の日本選抜に選ばれ、第4戦(京セラドーム大阪)では全日本の4番に座りタイムリー、第5戦(ヤフードーム)ではジョン・ラッキーからホームランを放つなどまずまずの活躍をみせた。
2007年
全試合に4番サードでスタメン出場。2年連続30本塁打100打点を達成。打率・出塁率を前年より上昇、三振数を減少させた。重いバットの使用(後述)の効果もあり、後半戦だけで23本もの本塁打を量産し、8月終了時点で8本差をつけられていたタイロン・ウッズを抜き去り、36本塁打で初タイトルとなる本塁打王を獲得した。
12月に開催された北京オリンピックアジア予選を兼ねたアジア野球選手権大会に日本代表として出場した。この時は背番号「25」を新井貴浩に譲り、自らは生年でもある「55」をつけてプレーした。
2008年
昨年に引き続き開幕から4番サードで出場。春先は不調だったが5月から調子を上げ、7月中には30本塁打に到達した。3年連続の30本塁打達成は球団史上初である。前半戦終了時点で本塁打数、長打率でリーグトップに立っている。この活躍により北京オリンピック野球日本代表に選出された。9月14日、オリンピック招集などの影響でいくつかの試合を欠場しつつも、自身初のシーズン40本塁打に到達する。
村田修一をウィキペディアで詳しく!





